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景徳鎮の歴史

中国磁器の代名詞ともいえる景徳鎮は中国で「磁都」と称される歴史ある磁器作りの町です。
世界に先駆けて高品質の白磁の生産が始まり、景徳鎮郊外の高嶺(カオリン)山からは高品質な磁器の原料である「高嶺土」が産出されました。「高嶺土」は鉄分の含有量が低く、粘性、耐火度が高く、繊細な白い磁器を生み出すのに適しており、高嶺山は高級磁器素材のカオリンの語源となりました。

長江の南、江西省東端、昌江の流れの南に焼き物の街ができ始めたため、当初は昌南鎮と呼ばれていましたが、宋代の景徳年間に宮廷献上用の陶磁器が生産されたことにより、元号から名前をとり以降は景徳鎮と呼ばれるようになりました。
宋代は景徳鎮における陶磁器の生産が初めて世界に名を轟かせた時期であり、続く元代、明代の染付磁器とともに東は日本、西はペルシャ、トルコ、アフリカ東岸まで輸出されました。イスラム圏にはるばる磁器を運ぶ中国キャラバン隊の姿を描いた絵も残されています。オランダ、イギリスの東洋進出が始まると中国商人やイスラム商人の手を離れ、西洋人による直接の輸入やオーダーが始まります。景徳鎮にも西洋人が訪れる様になり、相互の技法やデザインの交流が始まりました。
そのため景徳鎮は昔から不思議な国際性のある田舎町でした。西洋人の不思議な中国人のイメージはもしかしたら景徳鎮人かもしれません。そのせいか景徳鎮には昔から田舎には珍しいほど多くのキリスト教徒や回教徒がおり、教会やモスクもあります。また城壁に囲まれていないオープンな街も中国では珍しいものでした。ややもすると秘密主義で保守的になりやすい焼き物の産地の中で景徳鎮がオープンで柔軟性に富んでいるのはこういった国際交流の伝統によります。
日本の徳川時代の古いお寺の庭や、インドの東インド会社関連の庭、オランダやイギリス、アメリカの古い街に時々見る古い中国薔薇の原種は、やはり景徳鎮の古い窯が散在する山間の農村に多く自生しているのも見逃せません。そして、この山間の街道はキーマン紅茶を運んだティーロードでもありました。西洋人が焼き物とお茶とバラを運んだのです。

景徳鎮は決して骨董の世界でもなければ骨董の街でもありません。時代や民族、国や宗教を超えて常に自由な精神が羽ばたいて、世界の中で高い独自性を保ってきたのです。

青磁、青白磁、青花、粉彩など多様な製品が今でもつくられ、日用雑貨から芸術品に至るまで、何もかも巨大なスケールで動く、24時間眠らない街、省都をしのぐ経済の街、それが景徳鎮の真の姿です。最近は観光と産業を一体化した街づくりが進められています。列強による半植民地化、日中戦争、共産革命の混乱と衰退を経て21世紀は再び景徳鎮が世界に復帰する歴史的時代の幕開けです。

今の景徳鎮に触れることは、近年見ないダイナミックな陶磁器の歴史展開のの最前線の目撃者となれる楽しみがあります。

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