ホーム>迎茶百科>中国茶の歴史

中国茶の歴史

中国茶の歴史

茶葉

お茶発祥の故郷、中国のお茶はお茶の歴史と文化を語るうえで欠かせない大切な存在です。
時代や地域、時節によって様々なお茶と暮らしを育んでできた中国には、なんと数百種類ともいわれるお茶が存在するそうです。
世界各地には、それぞれに育まれてきたお茶文化の歴史がありますが、お茶の発祥地である中国には古くからのとても長い茶文化の歴史があります。
このページでは、私たちのが日頃飲んでいる中国茶について、より深く知るうえで是非触れておきたい「中国茶の歴史」について簡単にご紹介いたします。

中国茶は、中国大陸及び台湾で作られる茶の総称です。
中国茶、台湾茶などという呼称もありますが、中国の伝統製茶法を引き継いだ様々なお茶が世界各地に存在する今日、製法に伝統を強く引き継いでいる大陸と台湾の茶を総じて中国茶と言っても構わないのではないでしょうか。
中国茶としてその共通するところは、味や香りといった単なる嗜好性の枠を超えて、伝統哲学や医学、宗教観に基づいた志向が製造と価値観に深く関わっているところであり、そこが製造法や産地にとどまらず日本茶やインド紅茶と大きく違うところです。
中国茶の世界で茶を「飲む」という言い方が、「喫茶」や「品茶」など多種多様あるのはそういった伝統の表れです。
最近でこそ西洋式の舌や鼻でテイスティングすることが普通になされていますが、本来は体に取り込んで五体で茶葉の滋味を受け取り覚醒することによって、心身のバランスをとることができるような力をもつものがよいお茶とされ、特に唐代以降、詩や文学にもそういったことがたくさん出てまいります。

古来より南方の地域的嗜好品や薬、健康食品であった茶が、一般に中国全土で飲まれるようになるのは、唐王朝の全土統一まで待たねばなりませんでした。
西域とも接する大帝国の繁栄は世界中の物産、人材の往来を招き、経済活動の発展と相まって多岐に爛熟した文化が展開しました。
その頃、一人の人物が茶を点てることで一家をなそうとしておりました。
今は茶聖と呼ばれる「陸羽」その人です。
陸羽という人の出現と、その人の著した喫茶のガイドブックともいえる「茶経」という書物が世に出たという事は、唐代の喫茶の流行をもって、茶というものがそれまでの局地、地域的な物産の地位から世界経済的な物資の地位へと移行する一つの転換点に位置していたことをはからずも表しています。つまり唐代の喫茶の流行と私たちの今日の中国茶の流行は、実は同じ路線の上に存在すると言えるのです。

それゆえ中国茶を楽しむ私たちにとって、唐、宋、元、明、清の茶文化に関心を持つことはお茶の今を知るために、実はとても有益で大切なことです。

宋代にはお茶は完全に中国に普及したのみではなく、近代的市場経済の萌芽発展とともに国家の重要な交易品目として生産量も増え、流通も発展したことで付随したサービスや茶器製造なども併せて末端まで発展していくことになります。
宋代に確立された喫茶法の一つ、茶筅による抹茶の点茶はそのまま日本の現在の抹茶につながるものです。
禅宗の流行と茶のかかわりもこの時代の重要な要素です。

モンゴル人による征服王朝である元朝になると帝国の版図は遠くイラクや東欧までにおよび、モンゴル人によって中国の文化が西にたくさん持ち出されました。お茶を飲む習慣もこのとき西にたくさん持ち込まれたのでしょう。
今でも中央アジアの遊牧民の古い生活道具には美しい刺繍を施した絹の茶入れなど伝統のあるものが残されていますが、それらはこの時以来のものです。
また、西域のイスラムの戒律では禁酒となっていますが、お茶は今でもチャイとしてインドからイラン、トルコまであらゆるムスリムの国で日常愛飲されています。さまざまな国の興亡と民族の移動で、馬の背で茶葉が遠くまで運ばれた時代の名残です。
そしてこの時代、釜蒸し茶の緑茶製法が現れます。日本のお茶と同じ製法がこの時出てきたわけですが、中国では続く明朝に蒸しと抹茶がすたれて、釜煎りの葉茶が主流となって今日まで続きます。
明朝末期、日本が徳川時代となり、将軍家の鎖国政策のため大陸の流行がダイレクトに伝わることが無くなったことを考えると、それぞれの製茶の主流が蒸し茶と釜炒り茶としてここで分岐したことがとても興味深く感じられます。

明朝は漢民族の農民が建てた王朝です。それまで異民族に抑えられていた漢族の知識人が一斉に活動を開始しました。
お茶に関する著作も増えて、文人文化の再興とともにいわゆる、学者やお金持ちの通人が大活躍しはじめます。
この時代にお茶のこまやかな楽しみ方がたくさん考案されます。
みなさんがよく使う朱泥や紫泥の急須や茶杯もちょうどこの頃現在のスタイルになりました。
お茶の楽しみ方のバリエーションが増えて地方色など細分化して清代に引き継がれます。
この頃の喫茶を扱った絵画をたくさん見ることができますが、描かれた茶のスタイルは現代にとても近いものです。
現代との大きな違いは茶芸のような商業ベースの茶文化による無理な牽引ではなく、知識人の教養が茶文化を牽引していたことです。
それゆえ道具づかいに無理がないことが絵画からも見てとれます。

清朝は元朝以来の征服王朝である滿洲女真族による統治の時代です。
清朝はモンゴル人王朝の元が短命で終わったことから、自ら漢化するところはして、文化事業を大々的におこなうことで漢人知識人を大動員し、政治的不満の矛先が王朝に向くことを遠ざけました。
そのため学問の整理がたいへん進んで知識人が政治より趣味に没頭する時代となりました。
茶が台所から書斎に持ち込まれ、学問と芸術の趣味が深くつながって茶葉や茶器の嗜好に影響を与えるほどになり、北方と南方の茶の楽しみ方、知識人と庶民の茶の楽しみ方にも違いが顕著になってきました。
全国的に大官や豪商の茶の飲み方は北京の宮廷や官僚に影響受けたものであり、庶民はその土地の巷の酒場や賭博場のその場の利便性から生まれた流儀を受けて発展しました。
日本の寿司が鉄火場で生まれたのと、茶芸が賭博の合間に生まれたのがとてもよく似ています。
エンターテイメントとしてのお茶もこの頃庶民の娯楽の中から生まれてきました。
これからは、南方庶民出身の茶芸のみならず、北方の中国茶の楽しみや宮廷貴族や文人のお茶の楽しみ方も大いに研究され楽しまれることを願いたいと思います。

→迎茶百科トップへ